リチャード・マニュエル


リチャード・マニュエル

リチャード・マニュエル(Richard Manuel 1943年4月3日生)
 [カナダ・ミュージシャン]


 オンタリオ州ストラスフォード出身。自動車工場の工員の一家に生まれ、子供のときから聖歌隊に加わりピアノを学ぶなど音楽教育を受ける。やがてブルースとゴスペルに没頭し地元のバンド「ロッキン&リボルズ」で活躍する。1961年夏、偶々巡業に来ていたロニー・ホーキンスのショーの前座で「わが心のジョージア」を演奏。ロニーにスカウトされ、彼のバック・バンドであるザ・ホークスに参加。後にホークスが独立し、1965年ボブ・ディランのバックバンドとして活動した。

 1968年にザ・バンドと改名し、レコードデビュー。初期3枚のアルバムでは、リチャードは積極的に作曲活動を行っている。とくにデビューアルバムの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の「イン・ア・ステーション」、2枚目の『ザ・バンド』の「ウイスパリング・パインズ」はリリシズムに溢れた楽曲であり、メンバーから作風がビートルズのジョージ・ハリスンに通じるものがあると言われた。2枚目からドラムを担当する。リチャードは経験が無かったが、いざやってみると、ドラマーのリヴォン・ヘルムをして「おれよりリチャードの方が上手いよ。」と言わしめるほどの腕前であった。「ラグ・ママ・ラグ」収録時は、始めリヴォンにドラムをさせたがどうもうまくいかない。かわりにリチャードにさせると、その素人っぽさがかえってよい効果をあげていた。ヴォーカリストとしても才能があり、デビューアルバムに収録された「アイ・シャル・ビー・リリースト」(ボブ・ディラン作)はファルセットを効果的に使った名唱とされている。ロビー・ロバートソンは「彼の声にはどこからか悲しみがただよっている。」と評している。ザ・バンドのメンバーはリチャードがメインのリード・ヴォーカリストと認識していたようである。

 穏やかな性格で仲間から「ビーク」と呼ばれて親しまれていた。しかし、アルコール、ドラッグにのめり込み作曲活動は次第に衰えを見せ、声も荒れ、車を猛スピードで走らせたりするなどの奇行が目立つようになる。家族も家出し生活も荒み切る。友人たちの援助でかろうじて支えられながら音楽活動を継続する。1976年11月25日に行われた「ラスト・ワルツ」コンサートで一旦バンドは解散。この時撮影された映画にはあまりリチャードの姿がない。彼は満身創痍の状態で歌えるどころではなく、「キング・ハーベスト」のリードヴォーカルも彼一人では歌い切れず、リヴォンとリック・ダンコが歌をサポートし、ロビーが間奏のギターを長めにするなどして助けた。

 1983年には、ロビー抜きで再結成するも昔日の面影は無かった。リチャードはますます酒と薬に溺れるようになる。リヴォンは、友人だった名マネージャー、アルバート・グロスマンの死に衝撃をうけてから止めていた酒と薬に再び手を出したと証言している。1986年3月4日、フロリダ州ウインター・パークにあるモーテルの一室で首をつり自殺。生前にソロ・アルバムを残すことはなかった。死後、1985年のライヴの模様を収録したライヴ盤が発表されている。

 1986年3月4日死去(享年42)


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