ラファエル・オスーナ


ラファエル・オスーナ

ラファエル・エレーラ・オスーナ(Rafael Herrera Osuna 1938年9月15日生)
 [メキシコ・テニス選手]


 メキシコシティ出身。ラファエル・オスーナは1958年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのメキシコ代表選手になり、彼の時代にメキシコ・チームは空前の強さを誇っていた。1958年のデビスカップ「ヨーロッパ・ゾーン」2回戦が彼のデビュー戦で、5月16日〜18日にかけてフィンランド・チームに「5勝0敗」で快勝したが、6月6日〜8日のヨーロッパ・ゾーン準々決勝でポーランドに「2勝3敗」で惜敗する。デ杯初登場から2年後の1960年、オスーナは南カリフォルニア大学時代からの親友デニス・ラルストンとのペアでウィ ン ブ ルドン 選手権男子ダブルス部門に初優勝を飾った。1962年にメキシコはデ杯で初めての「ワールドグループ」決勝に進出したが、12月26日〜28日の決勝でオーストラリアに「0勝5敗」で全敗し、初優勝はならなかった。当時のオーストラリア代表選手には、この年に男子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」を達成したロッド・レーバーもいて、オスーナはレーバーに全く歯が立たない敗北を喫してしまう。

 1961年から1963年までの3年連続で、オスーナはメキシコの同僚選手アントニオ・パラフォックスとのペアで全米選手権男子ダブルス決勝に進出し、デニス・ラルストンとチャック・マッキンリー(ともにアメリカ)の組と3年連続で決勝対決をする。1962年はオスーナとパラフォックスの組が優勝したが、1961年と1963年はラルストン&マッキンリー組に敗れて準優勝になった。1963年にオスーナ&パラフォックス組はウィンブルドン選手権男子ダブルスで優勝し、オスーナにとっては3年ぶり2度目のウィンブルドン・ダブルス優勝となった。そしてついに、ラファエル・オスーナは1963年全米選手権の男子シングルス決勝でフランク・フローリング3世を多彩なショットで翻弄し、7-5、6-4、6-2のストレートで初優勝を飾った。これはメキシコ出身のテニス選手として史上初めての、4大大会シングルス優勝であった。パラフォックスと組んだ男子ダブルス決勝では、ラルストン&マッキンリー組に7-9、6-4、7-5、3-6、9-11のスコアで敗れている。

 その後、デビスカップでメキシコ・チームは「アメリカン・ゾーン」の決勝でアメリカの厚い壁に阻まれ続けた。オスーナ自身も4大大会の舞台で、当時黄金時代にあったオーストラリア・テニス界の厚い壁を破れず、その後は好成績が少なくなった。しかし1969年5月23日から25日に、オスーナのホーム・グラウンドであるメキシコシティでデ杯の「アメリカン・ゾーン」決勝戦でオーストラリアを迎えた時、オスーナはシングルス2試合とダブルスに勝利を収め、「3勝2敗」で強敵オーストラリアを破った。とりわけ、最終第5試合のシングルスではビル・ボウリーと6-2、3-6、8-6、6-3の激戦を制し、彼の生涯中で最も壮絶な試合の1つを繰り広げた。ところが6月4日、オスーナの乗った「メキシコ航空704便」がメキシコ・モンテレイで離陸ミスのため墜落し、彼を含む乗客79名全員が即死してしまう。こうして、メキシコ最大の男子テニス選手となったラファエル・オスーナは、悲運の飛行機事故でわずか30歳の短い生涯を閉じた。事故死から10年後の1979年に国際テニス殿堂入りを果たしている。

 1969年6月4日死去(享年30)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ